穏便にいきましょう

日本語と文体が非常に残念

谷川俊太郎 「定義」 より

いくつか知り得た範囲で。信憑性は△

 

メートル原器に関する引用 

メートル原器は白金約九〇パーセント、イリジウム約一〇パーセントの合金でつくられており、その形状はトレスカ断面と呼ばれるX形に似た断面をもつ全長一〇二センチの棒であって、この両端附近の中立面を一部楕円形にみがき、ここに各三本の平行な細線が刻んである。一メートルは、パリ郊外の国際度量衡局に保管されている国際メートル原器(一八八五年の地金製)が標準大気圧、摂氏零度で、五七二ミリ離れて平行に置かれた、直径が少なくとも一センチのローラーで均斉にささえられたときの、中央の目盛線の間の長さと定められていた。日本のメートル原器はこれと同時につくられたナンバー二二で、その長さは一九二〇年~二二年に行なわれた定期比較で一メートルマイナス〇.七八ミクロンという値が与えられていたが、日本は一九六一年計量法を改正してメートルを光の波長で定義したので、メートル原器はその任務を終わっている。

 

 

 

なんでもないものの尊厳 

なんでもないものが、なんでもなくごろんところがっていて、なんでもないものと、なんでもないものとの間に、なんでもない関係がある。なんでもないものが、何故此の世に出現したのか、それを問おうにも問いかたが分らない。なんでもないものは、いつでもどこにでもさりげなくころがっていて、さしあたり私たちの生存を脅かさないのだが、なんでもないもののなんでもなさ故に、私たちは狼狽しつづけてきた。

なんでもないものは、毛深く手に触れてくることがあるし、眩しく輝いて目に訴えることがある。騒がしく耳を聾することがあるし、酸っぱく舌を刺戟することがある。だがなんでもないものは、他のなんでもないものと区別されると、そのなんでもなさを決定的に失う。なんでもないものを、一個の際限のない全体としてとらえることは、それを多様で微細な部分としてとらえることと矛盾しないが、なんでもな(以下抹消)

 

──筆者はなんでもないものを、なんでもなく述べることができない。筆者はなんでもないものを、常に何かであるかのように語ってしまう。その寸法を計り、その用不用を弁じ、その存在を主張し、その質感を表現することは、なんでもないものについての迷妄を増すに過ぎない。なんでもないものを定義できぬ理由が、言語の構造そのものにあるのか、或いはこの文体にあるのか、はたまた筆者の知力の欠陥にあるのかを判断する自由は、読者の側にある。

 

 

これは今、机の上で私の眼に見えている。これを今、私はとりあげることができる。これで今、私は紙を人の形に切ることができる。これで今、私は髪を丸坊主に刈ってしまうことすらできるかもしれない。もちろんこれで人を殺す可能性を除いての話だが。

けれどこれはまた、錆びつつあるものである、鈍りつつあるものである、古くさくなりつつあるものである。まだ役立つけれど、やがて捨てられるだろう。チリの鉱石から造られたのか、クルップの指が触れたのか、そんなことをもはや知る術はないにしても、これがいつかはまたかつてそうであったように人間のフォルムから脱して、もっと無限定な運命に帰ることは想像に難くない。これは今、机の上で、そういう時間を語っているものである。誰に向かってでもなく冷く無言で、まるでそうはしていないかのようにそうしているものである。自らに役立てようと人はこれを造ったのだが、役立つより先に、これはこうしてここにどうしようもなく在ってしまった。これは鋏としか呼べぬものではない。これは既に他の無数の名をもってるのだ。私がそれらの名でこれを呼ばぬのは、単に習慣にすぎないというより、むしろ自衛のためではあるまいか。

何故ならこれは、このように在るものは、私から言葉を抽き出す力をもっていて、私は言葉の糸によってほぐされてゆき、いつかこれよりもずっと希薄な存在になりかねぬ危険に、常にさらされているからだ。

 

 

 コップへの不可解な接近 

それは底面はもつけれど頂面をもたない一個の円筒状をしていることが多い。それは直立している凹みである。重力の中心へと閉じている限定された空間である。それは或る一定量の液体を拡散させることなく地球の引力圏内に保持し得る。その内部に空気のみが充満している時、我々はそれを空と呼ぶのだが、その場合でもその輪廓は光によって明瞭に示され、その質量の実存は計器によるまでもなく、冷静な一瞥によって確認し得る。
指ではじく時それは振動しひとつの音源を成す。時に合図として用いられ、稀に音楽の一単位としても用いられるけれど、その響きは用を超えた一種かたくなな自己充足感を有していて、耳を脅かす。それは食卓の上に置かれる。また、人の手につかまれる。しばしば人の手からすべり落ちる。事実それはたやすく故意に破壊することができ、破片と化することによって、凶器となる可能性をかくしている。
だが砕かれたあともそれは存在することをやめない。この瞬間地球上のそれらのすべてが粉微塵に破壊しつくされたとしても、我々はそれから逃れ去ることはできない。それぞれの文化圏においてさまざまに異なる表記法によって名を与えられているけれど、それはすでに我々にとって共通なひとつの固定観念として存在し、それを実際に(硝子で、木で、鉄で、土で)製作することが極刑を伴う罰則によって禁じられたとしても、それが存在するという悪夢から我々は自由ではないにちがいない。
それは主として渇きをいやすために使用される一個の道具であり、極限の状況下にあっては互いに合わされくぼめられたふたつの掌以上の機能をもつものではないにもかかわらず、現在の多様化された人間生活の文脈の中で、時に朝の陽差のもとで、時に人工的な照明のもとで、それは疑いもなくひとつの美として沈黙している。
我々の知性、我々の経験、我々の技術がそれをこの地上に生み出し、我々はそれを名づけ、きわめて当然のようにひとつながりの音声で指示するけれど、それが本当は何なのか──誰も正確な知識を持っているとは限らないのである。

 

 

コップを見る苦痛と快楽について 

木の卓の上に透明なコップがあり、その中に水が入っている。今、六十燭光の電灯の光は左斜上から射していて、コップの側面の円筒形の硝子の一部に極く淡い虹色のスペクトルを見せているが、それは決してコップとその中の水とを修飾するためのものではない。

水は渇きを医すために汲まれたものではなくて、おそらく家族が(多分子供が)何の目的もなく、或はそれ故に一種の遊びとしてそこに置いたのだろうと思われるのだが、その姿は極めて日常的でありながら、見る者に緊張を強いる。その緊張は硝子の質感を暗示する脆さ、又は水のそれの暗示する変容の可能性等からもたらせるものではなく、むしろその反対にそれらの不動性からくるもののように感ぜられる。そのコップとその中の水(と卓の上の柔い影)とは、誰かが手を伸ばせば一瞬のうちに破壊され得るものでありながら、今それがそこに存在してしまった事実は既にどうしようもない。

その不動性は永遠とはいささかの関係ももたぬものでありながら、すべての人間にとってひとつの謎のように立ち現れる。それ故にそれらを描写し表現するいかなる言語もあり得ぬし、それらを画き象るいかなる絵画も彫刻もあり得ない。だがそのために曖昧にならぬばかりかそれはそのためにこそますます明晰なのであり、その余りの明晰の故にそれは見る者を徐々に<詩>の観念にすら近づけるのである。そうなのだ、貴方よ、私は今そこに<詩>しか見ることができないのだ。余りにも眩く、全く手のの届かぬ<詩>が無言の私の心を満し、私は遂に焦燥どころか、一種酩酊に似た平安を感ずるに至るのである。

 

 

りんごへの固執 

紅いということはできない、色ではなくりんごなのだ。丸いということはできない、形ではなくりんごなのだ。酸っぱいということはできない、味ではなくりんごなのだ。高いということはできない、値段ではないりんごなのだ。きれいということはできない、美ではないりんごだ。分類することはできない、植物ではなく、りんごなのだから。

花咲くりんごだ。実るりんご、枝で風に揺れるりんごだ。雨に打たれるりんご、ついばまれるりんご、もぎとられるりんごだ。地に落ちるりんごだ。腐るりんごだ。種子のりんご、芽を吹くりんご。りんごと呼ぶ必要もないりんごだ。りんごでなくてもいいりんご、りんごであってもいいりんご、りんごであろうかなかろうが、ただひとつのりんごはすべてのりんご。紅玉だ、国光だ、王鈴だ、祝だ、きさきがけだ、べにさきがけだ、一個のりんごだ、三個の五個の一ダースの、七キロのりんご、十二トンのりんご二百万トンのりんごなのだ。生産されるりんご、運搬されるりんごだ。計量され梱包され取引されるりんご。消毒されるりんごだ、消化されるりんごだ、消費されるりんごである、消されるりんごです。りんごだあ! りんごか?それだ、そこにあるそれ、そのそれだ。そこのその、籠の中のそれ。テーブルから落下するそれ、画布にうつされるそれ、天火で焼かれるそれなのだ。子どもはそれを手にとり、それをかじる、それだ、その。いくら食べてもいくら腐っても、次から次へと枝々に湧き、きらきらと際限なく店頭にあふれるそれ。何のレプリカ、何時のレプリカ?

答えることはできない、りんごなのだ。問うことはできない、りんごなのだ。語ることはできない、ついにりんごでしかないのだ、いまだに・・・・

 

 

私の家への道順の推敲 

 地下鉄丸の内線と言えば、豊島区の池袋から南西の杉並区荻窪まで、直線距離にすればたかだか九粁ほどのところを、

  わざわざ茗荷谷御茶ノ水、東京、銀座、四谷、新宿という工合に遠廻りして走ってるので評判である。

  私の家は残念だが、その終点荻窪の一つ手前の駅、南阿佐ヶ谷に程近い。

  南阿佐ヶ谷で地上に出ると、青梅街道沿いの歩道に立つのを避ける訳にはいかない。

  そこから仮に東へ歩き始めるとすると、街道の南側には杉並郵便局、つづいて杉並警察署、北側には杉並区役所が現実に立っていて、

  その先に一軒の運動用品店が、この場合、目に入るだろうと思う。

  その角を単に右折して青梅街道と別れるのが正しい。 

 

 

完璧な糸の一端 

一枚の木の葉は、完璧な系の一端にある。その葉脈は純粋に機能的なものであるにもかかわらず、我等に読みとられることを期待するかの如く実現している。(殆ど、書かれていると言ってもいいほどだ)それを予言書と読む者は僧院で死すべきであり、それを設計図として読む者は発癌するだろう。それを地図として読む者は森に踏み迷い、それを骨として読む者は、秋の日長を歌い暮らすが良い。

たとえそのような誘惑にのらず、そこに何ものをも読まぬとしても、我等は人間の尺度から逃れ得ず、完璧な系はいかなる視線もとどかぬ彼方ですでに閉じ終っていることは明らかである。一本の痩木といえども、そのことを飽きずに体現しているのだ。葉によってのみならず、空へ伸びる梢によって、土をまさぐる根によって、その弱々しい枯れざまによってさえ。

 

 

灰のついての私見 

どんなに白い白も、ほんとうの白であったためしはない。一点の翳もない白の中に、目に見えぬ微小な黒がかくれていて、それは常に白の構造そのものである。白は黒を敵視せぬどころか、むしろ白は白ゆえに黒を生み、黒をはぐくむと理解される。存在のその瞬間から白はすでに黒へと生き始めているのだ。

だが黒への長い過程に、どれだけの灰の階調を経過するとしても、白は全い黒に化するその瞬間まで白であることをやめはしない。たとえ白の属性とは考えられていないもの、たとえば影、たとえば鈍さ、たとえば光の吸収等によって冒されているとしても、白は灰の影で輝いている。

白の死ぬ時は一瞬だ。その一瞬に白は跡形もなく霧消し、全い黒が立ち現れる。だが----

どんなに黒い黒も、ほんとうの黒であったためしはない。一点の輝きもない黒の中に目に見えぬ微小な白は遺伝子のようにかくれていて、それは常に黒の構造そのものである。存在のその瞬間から黒はすでに白へと生き始めている……

 

 

世の終わりのための細部 

風もないのに青いりんごが枝から落ちる。放たれた羊た ちは鳴き始め、夜になっても鳴き止まない。軋んでいた扉が羽根のように軽くなり、栞が頁の間からこぼれ、それから突然、竣工したばかりの歌劇場で、歌声が桟敷席までとどかなくなる。スティンドグラスに亀裂が走るのは仕方ないとしても、子供等が泣かなくなるのは耐え難い。蟻が巣に戻れなくなって、草の間で迷い、音叉時計の音叉がおしなべて半音高く響き始める頃には、何度たくしあげても靴下はずり落ち、卓子の脚は麻痺し、壁紙は発疹する。だが嫉妬と呼ばれる感情は消失するどころかますます激しさを加え、何ひとつ決定出来ぬため、家長たちの腹部は板状に硬直し、船底状に陥没する。珈琲豆の在庫が底をつき、横を向いていたジャックが正面を凝視する頃になると、動物園の駱駝がうっそりと街に歩み出てくる。星々がいざりのようににじり寄り、鉄の彫刻が大槌に鋳直され、マンダラの仏たちが裾をからげて河をさかのぼり、孕んだ女たちが何ごとかも知らずに行列をつくり、すべての出来事は次の出来事の前兆となり、それでもなお勲章が授けられ、けれど徐々に世界の細部はその凹凸と、特有の臭気を喪失し始める。螺旋は伸び切り、直線は緊張を忘れて撓み、円は歪み、平行線は互いに外へと背き合う。その滑稽を笑おうにも、筋肉はすでに皮膚に属していない。ブリキの破片の如きものが絶え間なく空から降ってくる。白痴の顔に、ついに人間が実現し得なかった叡智の影が宿る。大気が真空に吸いこまれてゆく。地球上のあらゆる言語が、文字を持つものも持たぬものも、Oの形の叫びに収斂し、その叫びを沈黙がゆるやかに渦巻きながら抱きとってゆく時、たんぽぽの種子がひとつ、地上に到達しようとむなしく頬のあたりをただよっている。

 

 

風景画は額縁から流出するだろうか 

画家は目前にあるものとは全く異ったものを画いてしまった。しかもそれは我と我が心の意図したものとも全く違っているのだ。近景にあるのはありふれた目薬の小壜ででもあるらしい。そして中景には空があり、遠景には動物の趾のようなものがある。と同時にそれらがすべてセピアに近い色調で画かれているために、全体の印象は一枚の樫の厚板の多様な木理のようでもある。

何者もそれが何処であるかを指摘できぬだろうし、またそれが何なのかすらあえて言い出す者はなかろう。だがその画は何ひとつ抽象化し得ていないし、それはまたいかなる人間の心象にもその対応を得てはいない。そのような画は当然どんな室内の、どんな壁面も期待できないのだが、そのことによって画又は画家が罰せられることもないのである。それはただ現世の無数の事物への、偶然のそれ故に誠実な窓の如きものであり、その窓を通して我々の見るものが何であるかはいつまでも隠されている。

おそらくは無口な工人の手になる丁寧な細工の額縁のみが、その画の価値を推測し得る唯一の根拠であるが、画がその額縁を超えて流出せぬとは何者も保証しない。

 

 

以下不明

・壱部限定版詩集 
・世界のノ雛形 
・目録 
・非常に困難な物 
・そのものの名を呼ばぬ事に関する記述 
・道化師の朝の歌 
・開かれた窓のある文例 
・隠された窓のある文例 
・水遊びの観察 
・不可解な汚物との邂逅 
・棲息の条件 
・疑似解剖学的な自画像 
・祭儀のための覚え書 
・な 
・咽喉の暗闇